History of Carlo

 カルロ・アバルトは、1908年11月15日に生まれた。誕生時の名前はカール(Karl)、すなわちカルロ(Carlo)の同義のドイツ語名である。カルロ・アバルトは生来のイタリア人ではなく、イタリア系オーストリア人の父とオーストリア人女性との間に生を受け、ウィーンで生まれたオーストリア人。そして、イタリア系の血に相応しい情熱と卓越した美的センスに加えて、ゲルマン系の精緻と規律の双方を受け継ぎつつ成長していったのである。

 若きカール・アバルトは、ドイツから起こったファシズムの閉塞感に支配されたオーストリアを脱出。同じ枢軸国ながら多少は自由が残っていたイタリアを拠点にレース活動を行うことにしたのだが、ルビアーノで開催されたレースで再び大事故に見舞われ、昏睡状態が続くような大けがを負ってしまう。 そして、カールがようやく死地から回復した時には、既に第二次世界大戦が勃発していた。ここで彼は、自身のその後の人生に関わるような、重要な決断を迫られることになる。そして彼は悩んだ末、イタリアからオーストリアに渡った父親とは逆の道を選ぶこととした。彼はイタリア式に“カルロ・アバルト”と名を変え、生活の本拠をイタリアに置くこととしたのである。

 第二次大戦がようやく終結し、カルロは戦前から親交のあったポルシェのエンジニア、ルドルフ・フルシュカの元で、トリノに本拠を置く新興のレーシングカー&高級スポーツカー・メーカー“チシタリア(CISITALIA:Com- pagnia Industriale Sporti- va Italia)”社にて画期的な四輪駆動F1マシン開発の設計・オブザーバーとして試作車の製作指揮にあたった。チシタリアは、第二次大戦前にはサッカー選手およびユヴェントス・チームのオーナーとしても活躍した一方、アマチュア・レーサーとしても活躍した企業家ピエロ・ドゥジオが1944年に興した会社。フィアットの量産車、“1100”のコンポーネンツを流用した純レーシングカーや美しいスポーツカーを続々と送り出し、大戦で痛手を受けたイタリアのモータースポーツ界の救世主として、大衆の期待を一身に受ける存在となっていた。

 チシタリアのワークスドライバーとして活躍していたグイド・スカリアリーニとその父親アルマンド親子は、チシタリア社に惜しみない助力を与えたアバルトの素晴らしい技術力と経営能力、そして人望に富む気質を高く評価しており、資金を援助してアバルトをリーダーとする新たな会社を設立するよう申し出た。そして、チシタリア社から主要スタッフ・設備などをほぼそのまま引き継いだ“居抜き”のかたちで、イタリアのモータウン、トリノはトレカート通り10番地に「ABARTH & C .」社を設立した。1949年4月、カルロが40歳を迎えていた時のことである。

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 晩年のカルロ・アバルトは、夫人とともに故郷ウィーンの別荘に移り住んだが、1979年10月23日、ついに波乱に富んだ人生の幕を閉じることになったのである。