250GTO
– Born to Race –
Gran Turismo Omologato
1950年開幕のF1世界選手権が単座フォーミュラカーによる短距離レースでドライバー主体の競技と、
2座席スポーツカーの長距離レースで、メーカーもしくはマニュファクチャラーを主体とた世界スポーツカー選手権
で構成されていた。
世界スポーツカー選手権ではイギリスのジャガー、イタリアのフェラーリ、ドイツのメルセデス・ベンツという3大ワークスの対決が注目されていたが、1955年の第23回ルマン24時間耐久グランプリレースにてモータースポーツ史上最悪の惨事が発生してしまった。
CSI =その後FISA、現在のFIA(国際自動車連盟)にあたる組織 = はスポーツプロトタイプの競争過熱を憂慮し、
「連続した12ヶ月に100台以上の生産」
を条件としたホモロゲーションを設定した世界スポーツカー選手権に移行することとした。排気量別の規定が設定され、1300cc以下のGT I、1301~2000ccのGT II、2001cc以上のGT III という3つのチャンピオンシップが1960年に誕生した。
当時のフェラーリはレース活動の資金確保のためにロードカー(ツーリングカー)を生産・販売するメーカーであったため、GT選手権参戦基準(Omologato)を受けるにはほど遠いと考えられていた。
この新規定に合致する新しいマシーンとしてエンツォ・フェラーリは、250GTOは’59年に発表した250 GT Berlinetta Passo Corto(通称250GT “SWB”)のシャーシとエンジンを利用した高性能モデル・バリエーションであると説明し、250GT SWBの生産台数230台とあわせて100台を超えていると主張し、250GTOのGT3選手権用として公認(ホモロゲーション)取得に成功した。ちなみに”GTO”はGran Turismo Omologato(グラン・ツーリスモ・オモロガート)の頭文字。
ピニンファリナー設計の250GT SWBのボディ形状に対して、Ferrari 250GTOは空力的に洗練されたボディ形状とパワフルなエンジンを持つモデルとして、当時のエンジニア兼テストドライバーであったジョット・ビッザリーニの指揮するフェラーリのレース部門がピサ大学の風洞を借りてそのボディを徹底的に改良し、1961年に2台のプロトタイプが開発された(chassis#: 2643GT, 2053GT)。当時からフェラーリのボディの大半をデザインしていたピニンファリナーは250GTOに関しては一切関与していない。
Ferrari 250 GTO,1962 – Ferrari TRC, 1958 (60cm×80cm) 価格:4,200円 |
1962年2月24日に250GTOの初号車 chassis#:3223GT がマラネロにて発表された。
250GTOの初戦は1962年3月23日、アメリカ・フロリダ州で開催されたセブリング12時間レースにてFerrari 250TRに続く総合2位、GT3クラスで優勝という華々しい戦績が残されている(chassis#:3387GT)。
チーム:North American Racing Team、
ドライバー:フィル・ヒル(Phil Hill アメリカ)&オリヴィエ・ジャンドビアン(Olivier Gendebien ベルギー)
その後1962-63年にSeries Iとよばれる型が32台、330LM風のリアエンドを持つs/n:4713GTが1台、通称”330GTO”とよばれる3967 ccのエンジンにを積んだ型が3台の合計36台が生産された。1964年にはSeries IIとよばれる250LMゆずりの新しいボディとなった”250GTO64″が3台生産された。後にSeries Iの4台は”250GTO64″のボディにフェラーリ社にて換装されている。
生産された39台のFerrari 250GTOは現存しており、多くは動態保存されており、イベントなどで見かけることもある。以下これら39台の歴史をシリーズにまとめで掲載する。
Series 1
"330GTO"
Series 2